十月下旬のある日、書架が所狭しと並ぶ部屋の一角、秋の柔らかな日差しが降り注ぐ窓際に置かれたソファに小さな化け猫が毛布にくるまって寝ころんでいた。傍らのローテーブルには何冊かの本や雑誌が重なっている。
「お嬢様、そろそろ梁川さんがお見えになる頃ですよ。起きてください」エプロン姿の女性が化け猫に声を掛ける。
「私は眠ってなどいない。ただちょっと寒かったから毛布を掛けただけだ」化け猫はむくりと起き上がり、女性の方に居直った。
この化け猫、幼い子どものような外見していた。年の頃なら小学校に上がった頃合いだろうか、おかっぱ頭の丸っこい顔に眼鏡を掛けて、フリル付きのワンピースとカーディガンを着ている。これだけの特徴であれば“ええところのお嬢さん”に見えないこともないが、彼女の頭にはふさふさの毛に覆われた猫の耳が生えており、腰からは尻尾も生えていた。化け猫たる所以である。彼女の名は、本人が「名前ならいっぱいあってな。好きに呼ぶがいいさ」といつも言うので、近所の人々は皆「ネコミミ」と呼んでいた。
エプロン姿の女性は、ネコミミに仕えるメイドである。とあるひょんなことからネコミミに出会い、住み込みでネコミミの世話をすることになったのだが、それはまた別の話である。彼女の名は、朝日奈亜紀と言った。
そのとき、家の外から「ごめんください」という声が聞こえた。それを聞いた亜紀は、「はーい!」と声を張り上げて、ぱたぱたと玄関の方へと駆けていった。
しばらくして、亜紀が一人の男を連れて部屋に戻ってきた。紺色のジャケットを着た若い男である。
「よお、ひさびさ」この男が梁川であった。
「やあ、ご健勝かね。……亜紀ちゃん、椅子を出しなさいよ」ネコミミがそう言うと、亜紀はどこからともなく椅子を持ってきて、ローテーブルを挟んだネコミミの正面に椅子を置いた。
梁川は亜紀に「ありがとうございます」と言い、荷物を下ろしてからその椅子に腰掛ける。
それから亜紀は、ネコミミと梁川にお茶を出すと、「家事がありますので、失礼します」と言って、部屋を出ていった。
「何時に出てきた」
「七時の新幹線。それで十時のバスに間に合うね」
「なるほど」
「このテーブルの上の本、調べてたんだね」梁川はローテーブルの上に積まれた本や雑誌を指さして言った。
「貴君から電話をもらって、それからちゃんと調べたんだよ」
梁川は、鉄道振興会という団体の職員で、そこで機関誌の編集をしている男である。ネコミミは、梁川に頼まれてたびたびその機関誌に原稿を寄せていた。
一週間前、二人はいつものように電話で原稿の打合せをしていた。そのとき、梁川が「地方私鉄における最新技術の活用」というテーマで特集記事を組みたいと言い出した。梁川は、「最近取り上げていない鉄道会社を取材したい」と言うと、新潟県にある越後鉄道という会社の名を挙げたのである。梁川は、「今度そちらの方へ行く用事があるから、ついでに寄ろう。そのときに詳しい打合せをしよう」と言ったまま電話を切ったのだ。そして、今日に至る。
「越後鉄道……ねぇ」ネコミミはため息をつきながら言った。
「何か問題があるかい」
「いや、特には。ただ、中途半端で華がない。大手私鉄や準大手というには小さく、中小私鉄と呼ぶには規模が立派。特急も走っているようだが、いまいち印象に薄い。要は、マニア受けしないんだよ」
「そうかなぁ。今どき珍しい『地方私鉄の雄』と呼べるような鉄道会社だぜ。根拠はないが何かきっと良いネタがあるはずさ。それに最近うちの機関誌で取り上げていなかったから都合がいい」
「その都合しか考えていないだろう。……まぁいい、とにかく調べたのさ」そう言うとネコミミは、ローテーブルの上の本や雑誌をまさぐりはじめた。『私鉄の車両』、『日本の私鉄』と題された古そうな本を乱雑な手つきで除けて、下の方から『車両の科学』と書かれた雑誌を一冊取り出した。
「2022年の『車両の科学』で、越後鉄道の鉄道部長が書いた巻頭辞が載っている。ここにざっと最近の越後鉄道の様子が書いてあるね」
「ちょっと貸してみてよ」梁川は、そう言うとネコミミからその雑誌を受け取って読み始めた。
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『開業110年の越後鉄道』
越後鉄道株式会社 鉄道部
1 当社の沿革
越後鉄道は、1912(大正元)年に白山-吉田間が開業してから今年で110年を迎えます。
当社は、新潟より柏崎までを日本海に沿って結ぶことを目的として発足し、1913(大正2)年に越後線が全通、1916(大正5)年から1925(大正14)年にかけて参宮線が開通します。1927(昭和2)年には五十嵐川上流部への水力発電所建設のため下田線を開通させ、1930(昭和5)年には越後線と参宮線の電化を果たします。
1931(昭和6)年に鉄道省の上越線が全通し、新潟から東京へ向かうメインルートが信越本線から上越線に移ると、当社では新潟と長岡を結ぶ都市間電車の建設を企図しました。そこで、1915(大正4)年から1921(大正10)年にかけて来迎寺-西長岡-寺泊間の路線を開通させていた長岡鉄道を、1931(昭和6)年に合併し、当社の長岡線とします。
1933(昭和8)年に長岡線の電化が成り、このとき白山-西長岡間が電車によって結ばれました。更に1937(昭和12)年には鉄道省の長岡駅へ、1939(昭和14)年には新潟のシンボルである万代橋へそれぞれ延伸を果たします。
戦時中の1944(昭和19)年には下田線が不要不急路線として休止される一方、戦後の1950(昭和25)年には戦時中より休止状態にあった魚沼線の復活にあたり当社へ運行が移管されました。
その後、合理化による路線の廃止もありましたが、現在の総営業キロは127.5 kmと地方私鉄としては随一の規模を誇っています。
2 当社の現状
当社の路線は越後平野の西半分に広範に伸びています。そのうち沿線人口が特に稠密であるのが越後線万代橋-内野間です。この区間においては、1964(昭和39)年に発生した新潟地震からの復興を機に住宅地開発が急速に進んだほか、1980(昭和55)年には新潟大学五十嵐キャンパス開設されるなど、通勤・通学輸送の需要が非常に高い状態にあります。
一方で当社の路線の8割以上は、田園地帯を走るいわばローカル線です。多くの鉄道事業者同様、当社もまた道路整備の進展と自家用車の普及、少子高齢化による就労・就学人口の減少に悩まされています。
当社では、健全な事業継続のために合理化・省力化を進めてきました。1967(昭和42)年以降、信号の自動閉塞化とCTC化に取り組み、1995(平成7)年までに全線の自動閉塞化とCTC化を達成しています。ワンマン運転については、1995(平成7)年に越後線大河津-柏崎間および魚沼線で開始し、その後2006(平成18)年からは全線で実施しています。
しかしながら、輸送量の減少や災害の影響などにより1973(昭和48)年には長岡線大河津-寺泊間を、2004(平成16)年には魚沼線をバスへと転換しています。
一方で合理化・省力化だけではなく、積極的なお客様の誘致も行っています。沿線自治体との連携によりパーク&ライド駐車場の整備や弥彦山や岩室温泉といった沿線観光地を巡るためのクーポン付きフリー乗車券の発売などを積極的に進めています。
3 当社の車両たち
当社は、経営規模に比して営業キロが長く、車両保有数が多くなる傾向があります。また、沿線の大部分が豪雪地帯であることから、車両に耐雪設備を持つ必要があります。そのため、なるだけ車両のシステムや機器を統一し、保守・整備の合理化に注意を払っています。
当社の車両には、特急用車両と一般用車両の二タイプがあります。特急用車両は4両固定編成を基本とし、車内にはクロスシートを用意しています。一般用車両は2両または3両編成を基本とし、乗り降りがしやすいロングシートを採用しています。
全車ワンマン運転に対応しており、一般用車両については車内に運賃箱、整理券発行機、運賃表示器を取り付けています。また、これに付帯する保安設備としてデッドマン装置および非常通報装置を備えています。
車両の耐雪対策として、機器類の各可動部にはヒーターや雪除けのカバーが取り付けられています。更に降雪時でも安定的にブレーキを効かせられるよう、制輪子には特殊鋳鉄制輪子を使用し、車輪踏面の粗面化により滑走対策を施しています。
全般検査や重要部検査をはじめとする定期検査は西長岡工場にて行われています。このほか内野と吉田に検車区があり、車両の滞泊や増解結作業、仕業検査などが実施されています。
4 将来に向けて
現在、フラッグシップとして活躍している特急用車両7000系は、「環境にやさしく、快適で安全な輸送サービスを提供する」をコンセプトに、従来の特急用車両である3000系から大きくイメージを一新した車両となっています。特に、バリアフリー法に対応するために車いすスペースを設けたこと、それまでご要望の多かった便所設備を設けたことなどです。おかげさまで営業運転に入って以来、お客様からご好評をいただいています。
当社では、沿線自治体との連携により駅施設のバリアフリー化や駅前広場の整備などに取り組んでおり、すべての人に安心してご利用いただける鉄道を目指して事業を進めています。また、地域の町おこしにも積極的に関与しており、沿線自治体への産業・観光の誘致に協力しています。
また、当社においても鉄道従事者の減少はいかんともし難く、早急な対策が求められています。そこで、数年後を目途にAIを活用した運転支援システムを構築することを予定としています。
今後、当社沿線につきましても人口減少が予想されていますが、中下越に無くてはならない交通インフラという重責はいつになっても変わらないということは間違いないことです。
これからも地域に根差し、人にやさしく環境にやさしい鉄道という交通インフラを維持・発展させていくために最大限の努力を図っていきたいと考えております。
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「別になんてことはない文章だな」梁川は、雑誌をローテーブルの上に置くと、湯呑を持ってお茶を啜った。
「貴君ねぇ、君が『地方私鉄における最新技術の活用』と言い始めたから調べたのだ。この文章のどこに最新技術が書かれている。強いて言うなら――」
「7000系とやら最新の特急電車の説明とかかな」
「違う。最後の章の『数年後を目途にAIを活用した運転支援システムを構築することを予定としています』という文でしょうが」
「そこしか大した内容がないか」
「数年後というのはいつだろう。今、どうなっているのか気になるのだ」
「分かった。それじゃあ、そこを取材しよう」
それからネコミミと梁川は、具体的な取材の計画を立てた。まず、越後鉄道の本社に取材の依頼を行い、日取りが決まれば実際に赴いて現場を見せてもらう。それから、「あとは流れで」が二人の合言葉であったが、追加の調査を行って原稿に落とし込むのがいつもの流れであった。
取材依頼をするときはいつも梁川が手配を行う。鉄道振興会というのは意外に所帯が大きい組織で、日本国内の主要な鉄道会社やメーカーなどが協賛している団体なのだ。それゆえに、鉄道振興会を通じて依頼した方が、通りが良いのだ。また、こういうとき名無しのネコミミはいつも筆名を使う。「朝日奈ニコ」これがネコミミの通り名であった。